「女性防災クラブ平塚パワーズ」(以下パワーズ)の7代目会長の菅野 由美子さんにお話しを伺いました。
「パワーズ」については、こちら
菅野さんは、パワーズの第8期生で入会して以来、長く役員の重責を担っています。現在は、第7代会長として活躍されています。今回は普段話されないこともお話ししてくださいました。
深い話もお聴きすることができました。ご覧ください。
パワーズは発足して23年を迎えます。大まかに振り返ると前半と後半に分けられます。
・前半 市役所や消防署の方に、基本を教わっていたパワーズ
菅野さん 発足して10年ほどは、市役所や消防署の方に手助けをしてもらい、基本を教えてもらうだけでした。ロープの結束を学んだり、応急手当の方法を学習したり。時々、災害対策課に自治会から講習の要請があると、出かけていました。でも、決められたことを与えられた時間内にこなすだけでした。
・後半、自主的な活動となったパワーズ
菅野さん 市から活動の独立をしてまもなく、会員の勤務する保育園から「何かやってくれないか?」という依頼がありました。決められたことをこなすのではなく、自分たちで企画を考えなければならなくなって皆で考え、「紙芝居やろうか?」とか、「園児に難しいことを話しても分らないから、ゲームしながらどう?」などアイデアが出されて、実際にやりました。あまり上手くできたわけではありませんが、「パワーズさんに頼むと今までとは違うことをやってくれそうだよ」というクチコミが広まったんです。それから、他の保育園、幼稚園から多くの依頼がありました。
人の前で話すことの難しさ、決めたプログラム通りにいかないもどかしさ。会員みんなが悩みました。
実施したあとの振り返りを続け、
誰かがいないとできないことのないように、皆ができるようになろう
と自主的な学習会も実施しています。
現在は、各地域ブロックのメンバーで活動できるようになり、幅広い要求に応えられるようになりました。
・パワーズの存在価値のイメージストーリー
2XXX年 震度7の地震発生。避難所には多くの住民が避難していた。お年寄りも子供も、障害のある方も。
恐怖と不安がとても重苦しい雰囲気を漂わせている。
その時、ある人が立ち上がって「この中にパワーズさんはいませんか?」と大きな声で叫んだ。
みんなの目線がその人に向いていた。すると、隅の方にいた女性が立ち上がり
「私が、パワーズの1人です」と名乗りを上げた。そして、声を上げた人の方に駆け寄り
「どうされました? あらあら怪我をされてますね。血も出てるわよ。」
「でも、救急箱もないし包帯が無いんです。」
「大丈夫ですよ。周りにあるもので代用ができますから。」と言ってタオルを使って応急手当てをしてあげた。
障害のある方は、
「私は、視覚に障害があるんです。今、どんな状態かわからないのでとても不安で」
「それじゃ、私が避難所の掲示板を見てきてあげましょう。」
狭い避難所では子どもも愚図ってあちこちで泣き声も上がっていた。
「どうしたの?よしよし、いい子。おばさんと折り紙折って遊ぼうか」
子どもの笑い声が聞こえてきた。
それを見ていた避難していた人達の中から、動ける人たちが進んで動き出し、自分の家族だけでなく、他の家族の人たちのお世話をするようになっていた。
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菅野さん 私たちは、力もないし大したことはできないけど、人に寄り添うことはできる。そんな存在でありたいと思っています。会員に話すと「そう言われたら、名乗らないわけにはいかないね。」と言っています。
パワーズといえば、段ボールトイレをはじめとする、身近なものを使った防災のアイデアです。そのアイデアはどこから生まれるのでしょうか?
・アイデアは現場(防災講習会)から。園児から教えられた、忍者歩き。
菅野さん 講習会の現場での会員や参加者の何気ない一言から多くのアイデアが生まれます。保育園でTシャツでマスクを作って「忍者マスクだよ」と言ったら、園児が「忍者歩きする」と言って、つま先立ちでゆっくり歩いたんです。それを見て「そうか、床には危険なものが散乱しているんだ」と気づいて、それからは、「忍者マスクの後は忍者歩きだよ」と皆で一緒に歩いて盛り上がりました。
私たちにとって、現場はアイデアの宝庫です。
・アイデアは捨てないで摂っておく
菅野さん 完全じゃない思い付きのアイデアでも、没にしないようにしています。
会員が、ビニールの紐で結束ロープを作ったのです。「それ、どうするの?」「これを参加者にお土産にあげたら面白いかなと思って」。これも何年も寝かしておいた提案ですが、今ではイベントの目玉商品で喜ばれています。自分でロープの結び方を覚えてもらう時にも役立っています。
過去のアイデアでも現在やってみると良かったりすることもあります。また、思い付きの未熟なアイデアでも手を加えたり直していくと素晴らしいものになったものがあります。だから、捨てずにいます。
パワーズの結成のきっかけとなったのが、阪神・淡路大震災でしたが、パワーズの自主的な活動が軌道に乗ってきたところに、忘れられない東日本大震災が発生します。
呆然自失、3・11 東日本大震災の時。それでも・・・
菅野さん 地道に防災・減災などを伝えてきましたが、東日本大震災のもの凄さで、そんなの木っ端微塵に吹き飛ばされた感じでした。「私たちがやってきたことなんて、何の役にもならないじゃない」という無力感で会員は呆然自失でした。震災の5日前に仙台で防災のワークショップをしてきたばかりだったんです。
菅野さん 東日本大震災の時も、会長をしていました。その時の私は「ここで、何かしなければパワーズは終わってしまう」という気持ちでした。私たちは現地に行ける状態でもないし自分たちでできることはなんだろうと考えたときに、我々のアイデアの段ボールトイレを伝えられないかと思いました。
そこで、平塚市役所の記者クラブの神奈川新聞社さんの方のところに乗り込んだんです。
「小さな記事でもいいから、載せてくれませんか?」とお願いして載せていただきました。
結構反響があって、新聞社に問い合わせもあり、その後、作り方の動画などもSNSで配信されて熊本地震の際には沢山の再生回数を記録することにつながりました。
菅野さんは、パワーズでの活動初期と長年活動してきた今とでは意識が変わったことはありますか?
日本の民度の高さ
菅野さん 3歳、5歳の保育園、幼稚園の園児も防災訓練するなんて世界でも日本くらいじゃないいですか。
そして、災害にあっても自暴自棄にならずに、前向きに生活しているじゃないですか。すごい国民だなと思いますね。
違和感を感じたボランティアの使命。自分の命を守る?
菅野さん 活動を始めた講座で、「まずは自分の命を守るのが大事」と教えられたんですが、違和感を感じたんです。「人を助けるのが、ボランティアじゃないの」と思っていましたから。でも、今は、その意味がわかってきました。
母からの教え
菅野さん 2005年の阪神・淡路大震災の時、連日テレビで震災直後の火災が発生していく映像を見ていた母が、「もし、私がこの火災の中にいて、動けなくてあなたに「由美子、1人で死ぬのはいや。私の傍にいて」と言ったら、あなたどうする?」って聴いてきたの。
私は「そんなの決まってるじゃない、傍にいてあげるわよ。」と答えたのね。
そしたら「そうするんだ・・・。それじゃ困るのよ」と言い出したんです。
私が「何で?」と聞くと、「私の本心を言うから、これだけは守ってね。きっと震災に遭遇したなら極限の状態だから私も、弱気になって由美子に「傍にいて」と縋りつくと思うの。それは許して。でもね、あなたは逃げなさい。逃げるの。そして30分でも1時間でも長く生きるのよ。私が「行かないで」と縋りつくかもしれないけど、私の手を振り払ってでも逃げるの。」母はそう言ったんです。
しばらくして、いつになく真面目な顔で母は「そうなのよね。そんな風に育ててしまったのよね。私の育て方が間違ったわね。」と嘆いて言いました。
今思えば、これが、私の防災意識の原点かもしれませんね。
大正2年生まれで、幾多の災難を経験された母親ならではの言葉は重いですね。
昨年、西部福祉会館で行われたJICAの研修のときに来日した外国の方の研修後の感想のコメントに「平塚パワーズというだけあって、すごいパワーだった」という感想がありました。
今回の取材で、パワーズのパワー(力)は、母の愛のパワーだと感じました。
JICA研修のレポートはこちら
ライター:清水浩三