インドをモチーフに墨画の個展を開催していた平塚市長持在住の小谷野 洋子(こやの ようこ)さんに出会い、取材させていただきました。
墨画についてのお話を聴くところが、いつしかインドについてのお話で盛り上がり、途中に愛猫が近づいてきて、小谷野さんが愛猫に声をかけながら
「この猫たちがいなくなったらインドに住むのが夢です。」と話されました。
そこまで思わせるインドとの関わりはどのようなものなのか、インドの魅力、小谷野さんの魅力をご覧ください。
小谷野さんの墨画作品
題:「 聖地 」
題:「 ミトゥナ(愛情表現) 」
小谷野 洋子さん
墨画を始めたきっかけ
小谷野さん:「子どもの頃から書道をやっていまして、今は書道を教えています。途中から通信教育で油絵を習いました。島田 正治(まさはる)さんという墨画家の方と出会いまして、島田さんは学芸大学の書道科を経て、長くメキシコに在住して墨でメキシコをテーマに活動をされた墨画家で90歳近くになるんですが、島田さんが
「書をやって油絵もやってるんだったら墨で描いてみるといいよ」といわれました。
その方との出会いがきっかけでしたね。」
島田さんと出会うきっかけ
小谷野さん:「書をしてましたものですから、書に関する本を探しに東京神田の古本屋に通っていました。そのお店に島田さんの画集が置いてあったんです。その画集を観た時に、
「墨でこんな絵を描いている人が居るんだあ」とすごい衝撃をうけました。そして、ある時に島田さんが新宿で個展を開くというポスターをみつけたんです。それで飛んでいきましたね。
個展の会場でご本人とお会いして、私のことも共感してくれて
「個展が終わったら会いましょう」と渋谷で会いました。
「作品を見せて」といわれて、私は【篆刻】(てんこく)を持って行ったんです。そうしたら
「それなら個展をやったほうがいいよ」といわれました。
「墨で絵を描いた方がいいよ」と言われて、それから墨で絵を描くようになりました。
島田さんに出会っていなかったら、どうなっていたかわかりません。」
「篆刻」(てんこく)とは
石・木・銅などの印材に、篆書で中国の漢詩、漢文などを刻すこと
島田さんの画集を観た時の感想
小谷野さん:「私の墨画のイメージは中国の伝統的な水墨画でしたが、油絵のような感じでした。
私も、油絵を描いてましたので、墨で油絵のように描いてみたいと思いました。」
小谷野さんは書、油絵、篆刻、墨画と、やりたいと思ったら積極的にやる性格ですか?
小谷野さん:「すぐ行動する性格でしたね。それでやりはじめると続けるタイプです。親の遺伝かどうかはわかりませんが、書が好きだったんでしょうね。小さい頃、親に「バレエを習わせてほしい」と言ったらだめ、ピアノもだめ。書だけは許してくれて。今思うと、ずっと書を続けてきて良かったと思います。本当に書を書く楽しさや快感を味わってます。そういう境地にきましたね。
私に最初にお習字を教えてくれた先生は、漢字ではなくかな文字が専門の書家でした。
大学生のころに、その先生が事故で腕を怪我して教えることができなくなり、私が「代稽古」を頼まれて先生の代わりに子どもたちに教えていました。」
個展にこだわるのは何故ですか?
小谷野さん:「私が最初にお習字を習った先生の他に、篆刻の先生など様々な団体を率いる何人かの先生について習いましたが、「私は、自分一人でやりたい人間なんだ」というのがわかったんですよ。
団体に所属すると本音と建て前があるんですよ。言っていることとやっていることが違うんです。私は本音でしか生きられない、建て前が許せない性格なんですよ。馬鹿正直で妥協ができないんです。だから、団体の会が楽しくないんです。1人でやり始めるまでは時間がかかりましたが、今は
「一人で自由にやっていいんじゃないの」という世界になりました。
色々な先生について習ったものが蓄積されて、ある程度の知識、技術があるからですけど。
だから個展を中心にやっているんですよ。
島田さんに「個展をやりなさい、個展は勉強になるよ」といわれて、墨画を始めて1年後に銀座で個展を開きました。そのころは、モチーフは、近所の風景などでした。
島田さんも、先生も師匠も持たずに、またお弟子さんも持たずにやられています。私もその方が好きなので未だに「島田先生」ではなく「島田さん」と呼んでいます。」
墨画の魅力とは。
小谷野さん:「油絵は塗ったり重ねたり削ったりもしますが、墨は重ねることはあっても塗ることはしないで書くという感覚なんですよ。書をやっていましたので、相通ずるところがあって描けるんですよ。
そして、墨画家の先生の作品も、書をやっていないと線が違うなと感じます。線が生きてない。生きた線にはなかなかお目にかかれません。
書は絶対に書き直しができないんですよ。書きだしたら一気に書かないといけないんです。描くというより、書くという感じですね。生きてる線を書きたいというのが課題です。
生きてる線を書くためには、自分が生き生きとしていないと書けないと思っています。
墨画でも重ねることはありますが、上から新たに墨で線を書を書くというイメージで描いています。」
題「 聖水を汲みに 」
墨画は人間の人生と同じ
小谷野さん:「インドが独立して50年という年に、日印協会からの依頼で、インド各地で他の作家さんと一緒に、10都市で展覧会をしたのですが、その時に、デモンストレーションに墨で絵を描きました。
「墨は1度しか書けないもので、やり直しができない。それは人間の人生と同じで、人生もその日その時で終わりだ。墨画も同じ。」と話したら、まわりから「その通りだ」と大拍手でしたよ。
私は、気が乗らないと描きません。描きたい意欲が湧いて、感情の高揚がないと墨では描かないですね。描くことが出来る時と、出来ない時がありますが、ある時に降臨したかのように描けるときがあるんです。でも、その降臨は、描くことが出来る時、出来なかった時を重ねてないと出来ないと思います。出来ない日を重ねているから、いつかある日突然、出来るようになるんですよ。そう思っています。」
インドとの最初の出会いは?
小谷野さん:「昭和54年に私の母が亡くなったんです。母は仏心が厚い人でした。母が亡くなった後に、新聞に「インド1週間のツアー」の広告が載っていたんです。それまで私はインドなんて全く興味がなかったんですが、母は仏様を信心していた人なので、「お釈迦様の故郷で、仏教の原点のインドへ行ってみようかなあ」と思ったのがきっかけです。」
インドの地図
最初のインドツアーの思い出
小谷野さん:「ホテルも一流でしたし、すごいもてなしでしたよ。でも人との出会いが印象深いです。
その時にツアーのガイドをしてくれたインドの青年、名前はヨゲシュワル・ダヤル。とても性格がよくて彼はデリ―大学の日本語科を卒業してガイドの仕事をしていたのですが、「日本に留学してもう一度勉強したい」と言っていました。
ツアーが終わって、帰国してからまもなくして、彼が日本に来たんですよ。
私は留学の手続きなどを世話しました。結局、留学にあたっての条件が難しくて彼は諦めてインドに戻りました。その後、彼とは手紙のやりとりをしてました。
一年後に彼を頼ってインドに絵を描きに行こうと思って一ケ月間行きました。
彼は結婚して子どもも生まれて、赤ん坊を抱いて空港まで迎えにきてくれました。その日は彼の家に泊めてもらいました。まだ貧しい暮らしでしたが、自分たちのベッドを空けてくれて、彼らは床の上に寝る気遣いをしてくれました。インドでは床に寝るのは普通なんですが、やはりこれでは申し訳ないと思い、私は近くのホテルに泊まることにしました。
彼はその後も私のサポートをしてくれて、いろいろな場所で絵を描いたのが2回目のインド訪問でした。その時に、いろいろな方と出会って、40年近く今でもお付き合いがあります。
その後、彼は事業に成功して、現在は米国で暮らしてます。最近も米国から電話がありましたよ。
私が島田さんという人と出会ったことがインドとの出会いに繋がったように、人との出会いが大きいです。彼から紹介された女友達とは今も姉妹のように仲良くしていて、インドにいくと彼女の家に泊まるんですけど、私の部屋があるんです。インドに行くと、自分の家に帰るような感じになります。
人との出会いで、人生が変わっていくことを、しみじみ実感しました。
気持良く付き合える人と、気持ち良く付き合えないけど、なかなか縁は切れない人っていますよね。私は、そこには何か不思議な縁があるんだと思うようにしているんですよ。そして適当な距離を置いて付き合っていると良い縁になってくような気がするんですよ。無理に切ろうとはしない。そういう人付き合いを学習したと思います。」
小谷野さんの人生には、人との出会いの不思議さを感じます。他にもいくつかエピソードを話してくれました。
インドの駐在僧 長田先生との出会い
小谷野さん:「【インド子ども基金】という学校の支援をしています。この活動を知った熱海のお坊さんがいるんです。今は亡くなられましたけど。長田 順海先生という方です。お若い頃、インドで教育を受けられない子どもたちのために学校を沢山創られたんですよ。ブダガヤというお釈迦様が悟りを開いたところに日本のお寺があってそこの駐在僧をしていたころ、お金を貯めては幼稚園を建てていました。ところが貧しい人達が教育を受け「何で自分たちだけが虐げられた生活をしなければならないんだ?」とう自覚が芽生え始めると、そのことを快く思わない過激派から先生が命を狙われるようになってしまいました。それで暫くインドには行かれなくなった時期がありました。
長田さんは、活動が中途になったままなのをとても後悔されているところに、私のことを知り、「是非、お寺で会いたい」と電話をくださいました。
その時に、「私は高齢でインドには行けないから、後のことは頼む」と何度も言われてきたことがこの活動の根っこにあります。」
インドでの夜汽車で隣同士になった、オオタニさんとの出会い
小谷野さん:「ブダガヤの長田先生が駐在していたお寺の隣に、日本国際仏教交流協会がやっている菩提樹学園という名前の幼稚園があるんです。そこにリトミック教育のお手伝いに行っていたオオタニさんと言う女性がいまして、その方と夜汽車で隣同士になって、お話したら伊勢原にお住まいということで、私は平塚ですからということになって仲良くなりました。彼女は今でも、リトミック教育、音楽教育でインドにいってますが、私のバザーのお手伝いをしてくれたり、一緒にインドに行ってます。」
インドでガイドをしてくれた、ウメシュとの再会。
小谷野さん:「私が学校のサポートをしてるでしょ、私は日本にいるわけです。学校にお金を届けるにもやたらな人には頼めないわけですよ。
インド独立50周年での展覧会ツアーに、私のお弟子さん5人を連れていったんです。その時にガイドをしてくれたウメシュという青年がいたんです。その時は何も連絡先を交換することもなく別れたんです。翌年に私が絵を描きにベナレスに行ってボートの上で絵を描いていたら、後ろで私を呼ぶ声がして振り返ったらそこにウメシュが立っていました。ガンジス川で大勢の人が沐浴している中ですよ。びっくりしました。
運命ですよ。ウメシュも「学校の支援をするのが夢だった」ということで信頼できると思って、ウメシュに学校の運営を任せるようにしました。息子みたいなものです。
どのようにしてバザーをしてインドに支援をしてくれているのか知りたいと言って、夫婦で来日。
我が家に留まってバザーの手伝いをしてくれたこともあります。」
インドの国やインドの人々と接したことが無いと、インドのイメージはIT技術が発達していて、世界の最先端を進んでいるようなことも聴くし、また貧しい暮らしの情報もある。両極端なイメージですが、実際にインドに行っている小谷野さんはどう感じているのですか?
小谷野さん:「その通りで、ショックな場面を沢山みます。生活レベルは物乞いする人が今でも沢山います。インドの方は小さい時から見慣れているから何も感じない。それがとても悲しいです。」
インドやインド人の良いところ
小谷野さん:「インドにいると心が開放されます。日本人は、家に他人を呼ばないですよね。インドは金持ちでも貧しくても、いらっしゃいなんですよ。優しくて暖かい。インドでは飢えはないとおもいますよ。すごく助け合いますよ。
物乞いが青年に「何かくれないか?」と手を出してきたので、青年が「俺も貧しいので何かくれないか?」と返事をしたら、逆に何かをくれた。という話があります。
相互扶助があるんですよ。お節介といえばお節介なんですけど。また、人間なんて何も持たなくても、生きていけるんだと思わせる。開放感があります。」
小谷野さん:「私のゲストハウスの隣のお店で買い物した時に、お金が足りなくて「後で返すから貸してね」って言ったら「ノープロブレム」と承知してくれたんです。それで、翌日に返しにいったら「何でそんなに早く返しにくるんだ。友達じゃないか」といわれたことがありました。
小谷野さん:「インドで、携帯をまだ持っていなくて、急な電話をかける必要があったんです。やむなくて、知らない人の携帯で電話をかけさせてもらったんです。かけ終わって「電話代はいくら?」と訊いたら「何であなたが私にお金を払ううんだ?」と驚かれたことがあります。人の壁が無い。困ったら助ける。自分も困ったら助けてもらう。という考え方が強いんですね。」
小谷野さん:「私はインド人を見ると話しかけちゃんですけど、平塚駅前のコンビニでインド人夫婦に会いました。静岡から引っ越してきたばかりだということでした。「今度私のお家に遊びにいらっしゃい?と言ったら「今から行っていいですか」と言われて、家にあげたことがあります。その話をすると日本では考えられないっていわれました。
その夫婦は「今まで何年も日本にいて仕事をして住んでいますが、初めて日本人の家に入りました」と言っていました。
これが日本と、インドの差だと思います。日本では、日本人でも簡単には人を家に入れないところがありますからね。」
小谷野さん:「家でカレーを作っていて、材料のあるスパイスが無くて平塚市内のインド料理店に行って、「少し分けてくれないか?」と言ったら、少しどころかどっさりくれて、「いくら?」って聴くと「お金はいらない」と受け取らなかったです。」
インドの人たちの気質を物語るエピソードですね。そのマインドは何処からくるのだと思いますか?
小谷野さん:「ジョイントフアミリーなんですよね。家におじいさんから何世代も同居していて、抵抗感が薄いのかもしれませんね。核家族じゃない。ヒンドゥ教の教えに「お客様は神様だと思いなさい」というのがあるみたいですね。私は好きですね。」
インドのモヤモヤと感じる所は?
小谷野さん:「まだ貧富の差、差別があります。辛いのは、普通に街を歩いていると、そこに傷病の物乞いの人がごろごろいる光景は悔しいし悲しいですね。でも、友達からは「あの人たちには絶対お金をあげないでください。」とよく言われます。「あの人たちは金持ちだから」人に同情させてお金を集めるという貧困ビジネスがあるんですね。インドは貧富の差が極端な国ですね。悲しいです。」
インドの料理で好きなものは?
小谷野さん:「何でもおいしいですよ。特に好きなのはパンかな。ナンが有名ですけど、インドの家庭には釜土がありませんから一般的にはチャパティという、一枚一枚手で延ばして焼くパンを食べています。っこれが実に美味しいです。私は日本のマクドナルドでは食べないですけど、インドのマクドナルドでは食べます。バンズが美味しですよ。粉が違うんじゃないですかね? それからチャパティとオクラが好きですね。日本にもインド料理屋さんが沢山ありますが、インドでの家庭でのカレーを味わうと日本のカレーは胃がもたれてしまうんですよ。私自身も最近はインド料理のレパートリーが増えましたが、スパイスの使い方が全然違いますね。なかなか真似できないです。
インド人の半数がベジタリアンです。野菜の種類が多くて美味しいので、インドにいる時には野菜中心の食事で、肉・魚はあまり食べません。」
小谷野さんの少女時代はどんな子どもでしたか?
小谷野さん:「内向的。自分の中に入り込む子どもでした。いつも本読んでました。
両親の影響は大きかったですね。父からは「人の喜ぶことをしなさい」とよく言われました。
父親は104歳まで生きました。人を差別することなく、皆さんに愛される父でした。
母は仏心に厚い人で、しょっちゅう人がきて泊まったりご飯食べたりしている家でした。
学生時代に青森からきて下宿生活していたお友達のお弁当を1年間、私のお弁当と一緒に作っていました。兄のお友達もよくご飯食べに来てましたね。世話好き、お節介でしたね。
現在の我が家も、出勤前に来て、朝食を共にする友人もいます。
兄からは、「安否確認に寄ってくれているんだろう。ありがたいな」と言ってくれます。
こういう友人たちがバザーのお手伝いをしてくれ、何かと力になってくれ助けられています。
年齢が経てからお友達が増えましたね。ありがたいことです。
子どもの頃から両親には大事に育ててもらいましたし、兄とも仲が良いですので幸せだったなと思います。愛されて育つということは、本当に大切なことなんだと思います。」
ストレスの解消法
小谷野さん:「ストレスは人との摩擦で起こりますから、だんだん大人になって、「この騒がしい気持ちは、解消するな」というのが解ってきました。私は毎朝お経をあげてますが、それと瞑想をしてます。夜も数分行います。繰り返すと自分の気持ちの騒がしいのが消えていきますから。
人は変えられませんから、自分が変わらないと。」
今後の夢
小谷野さん:「のんびり、ぼーとして暮らしたいです。べナレスに住みたい。ヒンドゥ教の聖地で。沐浴で有名なところです。ベナレスは私が絵を描きたいと思わせる場所ですから。」
イターの独り言
「小才は縁に出会って、縁に気づかず。中才は縁に気づいて、縁を活かせず。大才は袖すり合う多少の縁までも活かす。」という言葉がありますが、小谷野さんは出会いをことごとく活かしていました。
「高齢になってから友達が増えた」とおっしゃっていましたが、小谷野さんの前向きに生きるマインドが成していると感じました。インドに住む夢が叶うことを願っています。ありがとうございました。
取材日:令和4年5月17日 清水記