一時期、中野サンプラザさんの歌う“大きな玉ねぎの下で”がカラオケの18番だった。
♪九段下の駅を降りて坂道を—–屋根の上に光る“玉ねぎ”♪
はじめにタイトルの意味が解らなかった。“玉ねぎ”って何?
だいぶ後で、“玉ねぎ”は日本武道館の屋根の擬宝珠(ぎぼし)のことを表現していることを知った。
日本武道館の擬宝珠
「水交社の保存と利用を進める会」の会長の鈴木 美都子さんは平塚の岡崎から駅方面へのバスの窓から、当時、(株)横浜ゴムの工場内にあった洋館の塔屋が愛らしく見えていたそうです。
平塚の八幡山の洋館の塔屋
平塚市の“八幡山の洋館”の保存と運営をしている、「水交社の保存と利用を進める会」の会長の鈴木さんと、袴田さんに洋館の歴史や会の活動などについてお話を伺いました。
「水交社の保存と利用を進める会」の右が会長の鈴木さん、左が袴田さん
「水交社」とは八幡山の洋館の別称で、正式には「旧横浜ゴム平塚製造所記念館」といいます。
この記事では、「洋館」と表現させていただきます。
洋館の歴史
1905年明治38年に、平塚が火薬製造所建設場所の地に選ばれる。製造所建設の中で本建物は英国人技術者の執務室、住居として建設された。最初の外観は茶色でした。絵葉書が売られています。
幾たびの火災にあい、都度修復されました。外観は現在のピンク色に変化していきました。
1919年大正8年に火薬製造所は海軍に買収され「海軍火薬廠」として発足しました。英国人技術者も帰国。洋館は「横須賀水交社平塚集会所」として、海軍の将校たちの交流の場として使用されました。
水交社の由来 「荘子」の次の言葉から。
「且君子之交淡若水」(君子の交わりは淡きこと水の如し)
人との付き合い方は、深入りせず適度な距離感を保って付き合わないと長続きしない
1923年大正12年の関東大震災で周りの建物は倒壊しました。洋館は奇跡的に倒壊までは免れました。
1945年7月 平塚大空襲で市街地の7割が消滅。洋館は免れました。
平塚は軍需産業都市で空襲の標的にされましたが、洋館は空襲しなかったようです。
1950年に横浜ゴムに洋館が払い下げられました。
以降、横浜ゴムは来客用の迎賓館のように使用されていました。
「八幡山の洋館」のしおり、ホームページから引用
会が発足するまでの経緯
鈴木さんのお話
横浜ゴムが不要なので取り壊す(洋館がなくなる)ことになりました。取り壊す前に、希望者で最後の見学をしようではないかと、当時の博物館館長の土井さんと江口友子市会議員が企画して参加者の募集がありました。約50人の見学者があってその時に、「壊すのはもったいない。何とか保存できないか?」という声があがり保存という機運が高まりました。そんな運動があって、平成16年4月に横浜ゴムが無償で平塚市に譲ることを決めました。
平成16年6月に活用方法と愛称を決めるワークショップがスタート。メンバーは公募で37名と社会教育課で構成され、平成17年3月まで15回開催されました。
同時期に「水交社の保存と利用を進める会」を設立し、洋館の運営に手をあげました。
一冊の「ワークショップのまとめ」から見える、当時の市民の想い
鈴木さんからお借りした本がとても面白く、当時の市民の皆さんの想いが伝わってきました。
夢やロマンにあふれた素晴らしいワークショップに感じられたので紹介します。
ワークショップは大きく3つの章に分かれています。
1章 記念館(洋館)ミッション-記念館の果たすべき役割・使命
1.歴史と文化財的価値を紹介する歴史資料として活用します。
2.平和を願うメモリアルとして活用します。
3.文化・芸術の発信地として活用します。
4.安らぎと憩いの時空として活用します。
5.多彩な交流の交差点として活用します。
6.街づくりの一助として活用します。
7.真に利用しやすい施設を目指し市民の力で運営します。
8.平塚の新しいシンボルとします。
上記がワークショップで検討されたミッションですが、施設を使いながら保存するということを基本に現在もこのミッションを忠実に遂行されています。「多彩な交流の交差点」なんて素敵な表現ですね。
2章 記念館の活用方法
ミッションを具体的にどんな活用があるか、未来の架空の物語が載せられています。これがとてもロマンティックで、いくつかあらすじを紹介します。
「悪友幸子の平塚自慢」
大学時代の悪友・幸子と平塚駅で待ち合わせした。幸子は私に見せたいものがあるらしい。案内されたのがおしゃれな洋館であった。
「うわ~!森の中に洋館があるみたい。なんで?公園の中に」平塚八幡宮の隣は異空間だった。
飲み物付きの入場券を購入して中を見学した。グランドピアノが置いてある部屋もある。時々ミニコンサートをすることもあるという。この洋館を移築した際の資料などが展示されており歴史を知ることができる。テラスのソファーで幸子とコーヒーを飲みながらお話をした。歴史を知った後なのでコーヒーも一味違う。廊下をはさんだ隣の部屋からピアノの音が聞こえてきた・・・・・・・・・・・・・・。
今でも、洋館の近くを通ると午後のコンサートのリハーサルなのか?フルートやヴァイオリンの音色が聞こえてきます。バラの庭園で聴く音はとても素敵ですよ。
「私はお嫁さんになる。この洋館で」
プロポーズされて、結納もすませ後は結婚式を待つばかりの女性が、思い描く式は「私を支えてくれた人たち一人一人に、自分の声で感謝の言葉を伝えたい。」小さくていいから、あたたかい結婚パーティーにしたい、ということでした。平塚のホームページでこの洋館のことを知り、“これだ”。生まれ育った平塚で、また歴史ある洋館で結婚パーティーをしよう。未来の夫も小さくうなずいた。
式当日は、市内に住むウエディングプランナーの企画を基に、地元の美容院、お花屋さん、ケーキ屋さん、そして友達がテーブルセッティングをしてくれた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
仲間が企画してくれた、手作りの結婚式をあげる女性の物語は素敵ですね。新郎新婦が八幡山の公園の緑の木々の間をウエディングドレス姿で歩くくだりは眼に浮かぶようです。
夢いっぱいの、みなさんの想いは純粋で感動します。
3章 記念館の運営方法の提言
9.一定の品位を保つこと
10.エキサイティングであること
エキサイティングを肯定した提言はあまり見かけないですよ。品位を保つなんていうと静かで堅苦しい催しばかりにならずに、わくわくするような内容を盛り込んでいく。
このワークショップのまとめには、参加者の純粋で強い想いがこめられていてとても感動する内容です。みなさんも是非一読していただきたいなと思いました。
運営するうえでの課題
鈴木さんのお話
運営に手を挙げ、協働で運営していますが、エキサイティングでワクワクするような企画をしようと思っても、そこには大きな問題がありました。洋館は小さいながらもとても音響が良く、著名なアーティストからも評価が高い施設です。そこでビッグなアーティストなどを呼んでコンサートなどを行おうと思ってもできないのです。行政の指導で高額な参加費をとるイベントなど商業主義なものの規制がありました。だからこじんまりしたイベントしかできないのです。こうした規制から他の団体が洋館運営から手を引いていった過去の歴史があります。現在も同じです。
運営していての感慨
袴田さんのお話
市民でさえ洋館の歴史を知らない、知っている世代がいなくなりつつある。語り継がれていないことを痛感します。「この洋館にはそんな歴史があったのですか?」と驚かれるそうです。
平塚の歴史を物語る象徴的な建物を知って貰えただけでも、この洋館の存在意義があると思います。
運営をするうえで心がけていること
鈴木さんのお話
利用者の視線でおもてなしをする。利用者が「ここでやって良かった」と思えるように、気持よく利用してもらえるようにしたいと心がけています。「あれはダメです。これをしてはダメ。」という言葉は使わないようにしよう、と気を付けています。
今後の展望
最後に鈴木さんに今後の抱負を綴ってもらいました。
中でも、3つ目の想いが印象的です。
3.市民は誰でも、いつでも来館しくつろげることのできるスペースとして開放される。徳川家康の時代に由来する平塚の近世、近代の歴史を含めて建物の解説を常に行い、市民は言うに及ばず市外からのお客様にこの“八幡山の洋館”が戦災の受難を経た現代でも歴史と芸術を創成し平和を祈願する“館”であることを知っていただく場とする。
ライターの独り言
鈴木さんは頑なに拒んだのですが、私が強引に最後の鈴木さんの直筆の今後の展望を載せました。
パソコンで文字にしてしまうと、鈴木さんの想いの機微が伝わらないし、感じられないと思いましてあえて画像で表現してみました。
取材を終え、記事をかいてまだまだ平塚の歴史に無知な自分を知りました。
“八幡山の洋館”をもっと利用しましょう。利用しなくても八幡山にいきましょう。
ライター:清水浩三(湘南NPOサポートセンター)