今回は、特定非営利活動法人「ぜんしん」(以下「ぜんしん」)の柳川 涼司 理事長にお話を伺いました。
「ぜんしん」の詳細は下記のホームページを参照ください。
ホームページ https://www.zenshinnpo.org/
設立10年を迎えた「ぜんしん」は、不登校・ひきこもり・就労問題等の悩みを抱える方々の自立をサポートする活動をしています。特徴は当事者親子が集うための居場所を設け、相談などを通して元気を取り戻してもらうこと。また、不登校・ひきこもりを経験して回復を果たした親子が支援者となっていること。更に、「ぜんしん」の活動に参加しやすいように、ゲームなどを活用していること。当事者たちが多様なプログラムへ参加することで自信を得ていただく機会などを提供し、復学・進学・就労といった自立を促していることが特徴といえます。
理事長の柳川さんも、不登校・ひきこもりを経験されたことや、過去にゲームで日本一になった経験を活かしたいと考えたことなどが「ぜんしん」の発足のきっかけになっています。
不登校・ひきこもりの悩みを抱える方を元気になっていただくイメージ。
「ぜんしん」に相談が入る
親:子どもが学校も行かずに、家に引きこもってますがどうしたら外に出せますか?
柳川さん:お子さんはご家庭でどのような生活をしていますか?……いきなり家から外へ出ることは難しいと思いますが、お話を伺うと、お子さんはゲームが好きそうですね。それならば、「ぜんしん」のイベントや定例活動の居場所に来てみませんか?すぐさま、学校の話(登校刺激)をするのではなく、同じ不登校などを経験したスタッフもいる居場所で、先ずは、人間関係に慣れるステップから試してみるのは、どうでしょうか?
親: わかりました。今度行きます。
柳川さん:是非、来てください。慣れて自信がついてきた時点で、学校に行けるかどうかなどを検討していきましょう。
イベントにきてゲームなどを行う
柳川さん:だんだん、顔色もよくなり、笑顔を取り戻して、元気になりましたね。もし、できるようなら、「ぜんしん」のイベントを一緒に手伝ってもらおうかな。
スタッフのお手伝いをする。自分でリーダーになって進行もできるようになる。
柳川さん:元気が出てきて、皆とお話もできるようになり、自信がついてきたようですね。自分から他の参加者にアドバイスができるまでになりましたね。この調子で、できそうなら少しずつ学校に戻ったり、別な進路について相談していきましょうか?
親・子を交えてこれからの進む道を具体的に話し合う
大雑把なイメージですが、「ぜんしん」の活動は復学、進学、就労を目指す、手前の手前を重視しています。いきなり自立に向けた目標を掲げません。居場所では各ご家族の悩みに丁寧に耳を傾け、方向性を見定めながらじっくりと手厚く、寄り添いながらのご支援を大切にしています。
少しご理解いただけましたでしょうか?
「ぜんしん」設立から10年。今回は理事長の柳川さんにスポットをあてて学生時代、「ぜんしん」立ち上げのきっかけ、活動を通してのエピソードなど、その時々の柳川さんのお気持ちがどうだったのかをお聴きしました。
学生時代の様子は?
柳川さん:幼いころから、勉強や運動が苦手でした。でも、ゲームだけは人より少しだけ得意でした。幼い頃からゲームにどっぷりつかっていました。街のおもちゃ屋さんが主催するゲーム大会に出場して入賞したり、雑誌のゲームランキングに応募して、日本一になったりもしました。
雲行きが怪しくなり出したのは、高校2年生になった頃からです。学生生活とゲームで日本一の獲得を両立させることが難しくなります。勉強もしなくてはならない―。でもゲームもしたい―。魅力的なゲームタイトルが次々と発売されるため、ゲームの研究に夢中になっていたら学校の成績が下がってしまいました。段々と学校に行きたくなくなり、不登校になっていました。
どんなゲームに夢中になっていたのですか?
柳川さん:2Dのシューティングゲームです。主人公(自分)が戦闘機に乗って魚型の敵戦艦(かっこいいんですよ)をやっつけるというゲームです。全ての敵機を完璧に美しく操作して、一つも残さず撃ち落さないと面白くないんですよ。それを研究していたら、ひきこもっちゃったんですよね。
柳川さんはどんな性格だったんでしょうか?
柳川さん:完璧主義でしたね。「学校では成績が上位で推薦をもらえるくらいでないといけない。他方では、ゲームも完璧にやらないといけない。そうしないと生きている意味がない」という殻をつくってしまいました。
登校やひきこもりになりやすい子は、完璧主義で、要領が悪く、融通が利かない。一方で、正義感が強くて、プライドが高い子が多いと感じています。完璧にいかないと周囲から外れてしまったりもするんです。正に、私がそうでした。社会では自分が思い描いた通りにはいきませんが、ゲームの中の戦闘機は自分の思い通りに動くんですよ。だから、現実逃避して思い通りに動いてくれるゲームの主人公に没入していったわけです。
その時の家族の反応はどうでしたか?
柳川さん:不登校になる以前から父は、厳しかったんですよ。怖いくらい。押さえつけられていた面もありました。不登校になった当初、母親からは「学校の成績は最下位でもいい。授業中も何もしなくていいから弁当だけ持って学校に行きなさい」とも言われました。だけども、自分なりの考えで、「それでは学校に行く意味がない」「ゲームで一番でなければ生きている意味もない」と決めつけて、学校を辞めてひきこもりました。昼夜逆転して、当然、家族ともいがみ合って、衝突の毎日でした。
ある時を境に、親が「ゲームで日本一になりたかったらトコトンやりなさい。応援してあげるからね。」という声掛けに変わってきました。ある日、親が「今日はゲームの調子はどうなんだ?」と訊くわけですよ。私は「まあまあ、そこそこだね」なんて会話ができるようになってきたんです。でも、その後、小遣いは止められました。これではゲームが出来ない…。それで、親と会話が出来るようになって、また応援もしてくれるように変わった親に対し、罪悪感もあり、反抗せずにバイトを始めたんです。
バイト先の苦い思い出
柳川さん:やっとの思いで始めたコンビニのバイト先で、偉い人から「心無いコトバ」を何度も受けました。その時に、「自分は真面目に働いているのに、何でこんなことを言われるんだ…」「こんなはずじゃなかった…」などと思いました。他のバイト先でも同じようなことを経験しました。そこで、「もう一度、勉強し直した方がいいかな」と思ったんです。同時に「こんな心無いコトバを言う大人にはなりたくないな」とも思いました。
当時の気持ちの中に、人を恨むような気持はありましたか?
柳川さん:バイト時代の怒りのようなものが行動を起こす発端でしたが、バイト先の人たちには「この野郎」とか「悔しい」とかという気持ちはなかったですね。ゲームを完璧にやらないと気が済まないのだから負けん気が強いと思われがちですが、全く違って、「見返してやろう」なんて気持ちもありませんでした。ただ、「二度と同じことを言われないようにしよう!と淡々と行動していかなくては」と思っただけですね。
学び直しの道に進むのですね。
柳川さん:そうなんです。親や前の学校の先生にも相談して予備校を調べたりして、結局は通信制高校に行くことになりました。転編入した高校には不登校やひきこもりの人もいて気持ちも楽でした。勉強のレポートもゲームを攻略する時によくメモを取っていたことから「どうしたら敵を効率よく倒せるか?」といったように理論的に考える経験が活かされて順調に高校を卒業し、大学へと進むことができました。
その後、起業プランコンテストに応募した時も、他の方々のプレゼンの良いところをメモして参考にし、自身のプレゼン資料をまとめ上げ、発表して評価されたました。このこともゲームの研究で培ったノウハウが役立っていると思います。
現在の活動でもゲーム好きな子が多いので、必要に応じて自分のノウハウを伝えています。
ロジカルな性格に思えますが?
柳川さん:直観的だとは言われますね。良く「理系ですか?」と聞かれますが文系なんです。
でも生きていくためにはロジカルでないといけない部分もあるので使い分けています。
商社マン時代に上司からお酒の席で「仕事はゲームみたいに進んでいかないからな」とご指摘を
いただいていました。
思い立ったら動くタイプでしたか?
柳川さん:逆ですね。思い立っても動きません。「石橋を叩いても渡らない」くらいでした。今は、フットワークが軽くなったと思いますが、当時は動かない、話さない人間でした。人との関わりも好きではありませんでした。
仕事の経験・立場によって変わっていったところはあります。仕事の関係で話さざるを得ないことも多く、業務を通して難しいトラブルに向き合わざるを得ないことなどを経験して鍛えられました。私にとっては大きなことでした。そこでもゲームの研究のように「この難局を乗り越えるには先輩方のやり取りを真似たら上手くいくかも知れない」なんてやっていました。
自分にしかできないことをやりたい。「ぜんしん」を起業するきっかけ
柳川さん:2011年ですが、ゲームがちょっと得意だったということと、不登校・ひきこもりの経験があったこと。ひきこもりなどの経験者として私も辛い思いをしてきたので、現在、悩みを抱える当事者親子に同じような辛い思いをして欲しくない。また、できるだけ早く気づきを得て、復活して元気になって欲しい。
親御さんは「いつまでもひきこもっていて、何やってんだ」と言いたくなることもあると思いますが、言い方を間違えると逆効果になることも考えられます。私は経験者なので保護者の方にもヒントを与えられるのではないか、私が役に立てるのではないかと思ったんです。
起業するにあたっては大きな不安もありました。でも、平塚市で活動されている方たちから「とにかくやってみろよ。」と強力に背中を押されたんですが、“石橋を叩いても渡らない”性格の私だったので躊躇していたんです。その時にある方から「藤沢で“起業家ゼミ”があるから参加してみないか?」と誘われて参加したんです。不安を抱きつつも何か得られるものがあると思い、参加してみました。すると、そのゼミで現在も一緒に活動を支えてくださる方々とも知り合い、また新しいアイデアも浮かんできたんです。起業プランコンテストに応募したら運よく賞を頂き、現在もそのプランをベースに事業を拡大しています。
柳川 涼司 理事長
当時の柳川さんの中には、福祉、市民活動という概念はありましたか?
柳川さん:福祉・市民活動というものを知らなかったというのが正直なところです。「不登校・ひきこもりの方を支援したいというのは、福祉の領域だろう」と、何となく分かっていたものの、そのためには何をすればよいのか?」ということを福祉・市民活動の観点から突き詰めることは、なかったですね。
でも、活動を進める中で、諸先輩方から「市民活動とは!」を着実に叩きこまれていったように思います。特に、市から助成金を獲得する過程では、「市民活動として「仲間を募り」、団体として何ができるのか?」などを理解していなくてはならず、福祉・市民活動への考え方を学ぶ良い機会になったと思います。とはいえ、最初は「ワンマン運営じゃなくて、仲間でやらなきゃだめ」と、先輩方によく言われていました。
完璧主義の柳川さんが「仲間とやる」ということの葛藤はありましたか?
柳川さん:団体の組織基盤を強化するにあたり、ここで言う「仲間とやる」の問題は浮き彫りになりました。活動内容も増えているのに、どの活動にも柳川さんが手伝っていて、全ての業務をこなし切れなくなっている。その為、仲間を募る必要がありました。また、業務内容を整理し、役割を分担する必要もあるため、市から助成金を頂いて外部コンサルタントを招き、助言を受けたりしました。その結果、「これまでは完璧主義の気質で全ての業務を抱え込んでいましたが、活動が拡大していくにつれて一人では立ち行かないと理解が深まり、徐々に他の仲間たちに業務を振り分けていくようになりました。ただ、こうした感覚を持って活動を続けられるようになれたのは、この2、3年前からです。
任せた時に、自分が求める結果とのズレに戸惑ったこともありましたか?
柳川さん:最初はそのズレにさいなまれました。私が自ら実行してしまえば短時間で簡単に出来てしまうことも、当事者団体なので、当事者の若者に活躍してもらう為、一部の業務を彼らに任せるシーンもあります。ただ、任せた結果、成果物がイメージと違っていて、私が直してしまったこともありました。それによって、任せられた若者の意欲を削いでしまったのです。時間は掛かりましたが、スタッフミーティングで話し合うなどして今は割り切って任せられるようになりました。任せられた当事者も確実に成長しています。
最初は限られた上層部だけで行っていたミーティングを、コロナ渦ということもありオンラインでボランティアスタッフも交えて話し合いをすることにしました。当事者の若者たちが考え出した企画は、できるだけ手を加えずに採用するようにしています。定例活動の後には必ず振り返り会議を行うようにしていて、任せた業務にズレが生じていないかを確認して、次の機会に活かすようにしています。
不登校・ひきこもりなど課題のある方に感じること
柳川さん:最近、居場所を訪ねてくださる当事者で、障害がある方が増えて来ています。当事者性を持って相談に応じることにも限界があり、支援の難しさを感じています。こうした方々への相談などで、重度の障害がある方は専門の機関にお願いしますが、軽度の方については我々の持っている力で対応していこうと思っています。その為、臨床心理士の方を招いて、ケーススタディしながらスキルアップしていくこともしています。今後もプログラムを増やすなどして、様々な 課題をお持ちの方々が訪れやすい運営を目指したいと考えています。
「ぜんしん」の目指すゴールは?
柳川さん:基本的には「社会的に自立してお金を稼ぐことができること」です。
年齢の高い方は「就職して仕事をすること」。学生には「家から出て自分の進みたい道を歩めるようになること」。でも、私たちは、お金を稼ぐことだけが自立だとは考えていません。家から出てボランティアをするのも自立だと考えています。
学生に対しては復学も、留学もいいし、現在は通信制の学校、フリースクールも増えています。周囲の大人たちが本人に押し付けるのではなく、本人の意思で選べるようにご家族と私たちが一丸となり、共同作業で目指すべきゴールに向かえるように寄り添ってあげることが役目だと考えています。
お互いの強みを活かす~平塚市と「ぜんしん」による事業展開~
柳川さん:幸いにも私たちは、平塚市の「協働事業」という制度を活用させて頂いております。具体的には、平塚市と進路相談会等を開催する協働事業においては、平塚市に所属する相談員様は、ゲーム依存などの相談対応が未成熟な状態でしたが、私たちスタッフはゲームを使うのことなどに精通していることに加え、当事者の挫折の背景などをつかんでいました。ただ、私たちは間借りによって活動スペースを確保しており、定常的な拠点を持っていませんが、平塚市には当然ながら相談拠点があります。こうした、お互いの弱みを補い、強みを活かす観点から第1弾目の協働事業が成立しました。
令和元年からは、第2弾目の協働事業として、当事者の方々が、居場所から社会へ出て行くことにチャレンジ!安心・安全な市の図書館で書籍の修理や本を整理するボランティア体験を通して、自信をつけて、更に自立意欲を高めてもらいたいと考え、協働事業を実施しています。
第3弾目として現在、「図書館から更なる社会へ!」と考え、市内の農家の方々と協力して、農業体験など行う協働事業を実施する予定です。市と団体の課題を突き詰めながら、活動を展開しています。
活動をしていて辛かったこと
柳川さん:私たちは、当事者の皆さんが力をつけてステップアップしていって欲しいので、彼らが力をつけてくるとレベルの高いことを任せようとします。ただ、当事者本人の成長を願って、こちらが依頼したことと、当事者本人の意識にズレが生じてしまって、会を離れて行ってしまった時は辛かったですね。本人は「もっと寄り添って支援して欲しかったのに…」と任せてしまい、結果が裏目に出てしまったこともあり、反省しています。
嬉しかったこと
柳川さん:相談してきた方が私たちのイベントに参加して元気になって、「今は普通に働いています。」などと自立できたという手紙や連絡がきたときは嬉しいですね。情報はスタッフ一同で共有しています。
また、元気になった子たちが会の定例活動やイベントなどを手伝ってくれることも嬉しいですね。 想像以上に手伝ってくださる方もいるので、驚いています。「元気になってくれた上に、人が喜ぶことまで出来るようになったんだ」と感動しています。純粋に嬉しいですね。
自信を持ったなあーと感じる時の様子は?
柳川さん:最初は居場所で無表情だった当事者の若者が、ゲームなどをやりながら段々と元気になって、自分から積極的にゲームを選んでやるようになった時などは、自信を持ってきた証ですね。
それから、当事者の若者が高齢者施設を訪問して、年配の方々と一緒にゲームをするシーンで、彼らが高齢者にゲームの遊び方などを上手にサポートできるようになった時も自信を得たなぁと感じますね。更に、「もっと違うことをやらせて欲しい」と言ってくる方もいます。
“気兼ねなく相談できる街” 平塚市であって欲しい。
柳川さん:ひきこもりや不登校の方々を支援する市民活動団体や関連する支援機関なども多く、良い街ですね。平塚市には各ご家庭のニーズにあった相談窓口があると思います。悩んでいる方たちが気兼ねなく 相談に行くことができて、元気になれるように、私たちも支援活動を盛り上げていきたいです。
今後の夢
「ぜんしん」の夢
柳川さん:会としては遊び心のあるゲーム感覚の活動を大事にしながら、数多くの方々が参加したいと思える支援メニューを増やしていきたいと考えています。また、昨今、当事者の抱える課題は多種多様になってきているので、訪れてくださる方々の期待に応えるべく、支援メニューの拡充を図ると共にスタッフの相談スキルの向上も図りたいですね。ゲームをステップアップツールとして活用しながら、今後は、より実社会に近づけた就労支援を推し進めるため、企業などとの連携支援も検討しています。
柳川さんの夢
柳川さん:年を重ね、仕事が一段落してからの夢となりますが、学生時代に興味を持ちながらも突き詰められなかった勉強をしたいと考えています。具体的な内容については秘密にさせてください。こめんなさい。
現在ゲームに夢中になっている方たちにメッセージ
柳川さん:つきなみですが、ゲームをやることによる爽快感などは分かっていると思います。だから、「やっちゃダメ」なんて言いません。依存しない程度に自らコントロールしながらゲームを楽しんで欲しいですね。依存しちゃいそうな場合は、いつでも、声を掛けてください。
ライターの独り言
ひらつか市民活動センターに行くと、必ず「ぜんしん」のイベントや相談で柳川さんがいました。センターの会議室の利用率NO1が「ぜんしん」です。今回お話しをお聴きして柳川さん、また「ぜんしん」の活動の熱意を感じました。「手前手前で課題のある方に寄り添う」という言葉に感銘をうけました。今後益々の活躍を期待しています。ありがとうございました。
取材日:令和3年11月16日 清水記