びん細工の個展を訪れて、出会った作品

ボトルシップ(個展の作品とは関係ありません)

“ボトルシップ”というのをご存知でしょうか?

昔、びんの中に船の模型が入っているのを観て「器用に作るなあ、どうやって作るんだろう?」と不思議に思ったものです。タウンニューの記事で2021年3月に元麻布ギャラリーにて「びん細工展」が開催されることを知り、観にいきました。丸いフラスコ型のガラスびんの中に、色鮮やかな手毬や花かごなど様々です。私が最も気にったのが、下の写真です。

親子かもしれないし、子ども同士かもしれないが、炬燵に入って、おやつを食べながら話しているような風景が何とも素朴で、ほのぼのとした雰囲気が感じられたので、「きっと作者の昔の思い出を表現したのではないか」と思いました。無性にご本人に訊いてみたくなり、今回取材させていただきました。

お話を伺ったのは、びん細工の作者で平塚市明石町の雲出小児科医院の伊東 幸子(さちこ)さんです。

伊東 幸子さん

 

雲出小児科医院

 

伊東さんのプロフィール

伊東さん:「私の曾祖父の前の代まではお坊さんでした。まだ神仏習合の時代です。神仏分離令・神社制度により曾祖父は、現在の八幡神社の初代神主となりました。祖父が二代目です。父は小児科医。戦後ニューギニアから復員後に雲出小児科を開院しました。

私は、昭和8年に長女(一人っ娘)として生まれ、平塚で育ちました。伊東家に嫁ぎ結婚後も勤務医として働いていましたが、2人の子どもを預かってくれる保育園がなく、実家で子育てをすることになり昭和58年から雲出小児科医院を継ぐこととなりました。」

伊東さん:「戦争時代を経験しているので、親からは生活できるようにと手に職をつけるように言われて医学部を目指しました。小学校6年生の時に終戦を迎えました。

小学校が現在の崇善小学校、当時は国民第一学校でした。花水地区も同じ学区で1クラス50人、10クラスもありました。

平塚高等女学校に入学、次の年に6・3・3制となり男女共学、学校名も江南高校と変わりました。

幼稚園の先生になりたかったんです。でも音楽、ピアノ、絵もダメということで諦め。数学の先生になろうかと思ったら、父が「医学部を受けてみたら」という勧めで、日本医科大学に進みました。

父が長いこと戦争に行っていたので、母親がとても苦労したと思うんですね。そして一人っ子でしたから兄妹もいないし、一人でも生活できるようにと考えたのか、医学部への進学の反対はなかったですね。

医学部に進学する女性は珍しい時代でした。」

 

びん細工の歴史

 古くは、長崎で文政4年(1821年)に松尾景雲という76歳の人物が創ったと箱書きによりわかっています。この瓶細工が日本最古のものとされ神戸市立博物館に「長崎ビイドロ瓶細工」として所蔵されています。

 その後、瓶細工はしばらく、表にでることはありませんでした。透明なガラスは庶民には手がでない品物でしたから。それと、ミステリアス。

 どうして「びんの中に入るんだろう?」と不思議に思ってもらうことが重要。

 手品と同じで種明かしはしない。一子相伝、口伝のみ。文献が無いという芸術だったんです。

 明治以降に、ガラスも庶民の身近になり、再びびん細工が復活しました。お嫁入前の娘さんの和裁のお稽古での着物の端切れで、ちりめん細工やつまみ細工が作られ、びん細工も再び作られるようになったと言われています。

伊東さんの個展案内より

 

びん細工の魅力

伊東さん:「私が初めて出会ったびん細工は、大叔母から贈られた初節句のお祝いでした。産まれて6か月のときでしたが。後日大叔母からの話ではびん細工の技法は口伝にて伝えられ門外不出ということでした。

文献を探しましたが書き残された文献はありません。でもこのミステリアスな手芸が再び埋もれてしまうのは残念という想いにかられ挑戦しました。知っている方を探して教えてもらったり、骨董市で見つけたびん細工を参考にして仕事の合間に夜なべ仕事に少しずつ作り始めました。私の着るものは母が作ってくれましたし、叔母も手芸などをしていて、幼いころから親たちの手仕事をする環境に育ったことが幸いしていると思います。

ドールハウス用のミニチュアのカップを購入しました。身近なものでも「使えるんじゃないか」と試したり、骨董市などで材料をそろえています。」

 

下の作品が、上の作品の元になった「碁打ち人形」です。骨董市で手に入れたものです。

伊東さん:「碁盤をびんの中にどうやって入れたかがミステリアスなんです。びん細工はびんに入れてしまったら取り出せないんです。文献がないものですから何回もスケッチブックにスケッチしてから作り始めます。

びんが丸いのでテーブルもサイズを計算しないとバランスが狂ってしまうので難しいです。

これなら大丈夫というところまで作り上げてから中に入れますし、体調が悪い時は延期します。4か月くらいかかりました。丸いフラスコ型のガラス瓶も手に入らなくて、そのために辞めてしまうもおられます。「作ってやるよ」と言ってくださる方がいて続いてます。」びんが無いことにはできないものなので廃れていく原因にもなっていると思います。」

びん細工のお話も尽きないのですが、伊東さんは永く平塚市にお住まいなので、昔話を少しお話ししていただきました。

 

戦時中の思い出

伊東さん:「小学校2年生のときに開戦でしたが先生の顔つきがいつもと違うなと思いました。「緊急職員会議があるので教室にいるように」とわれました。走っていく先生の顔が尋常でなかったのを覚えています。

日産車体のあったあたりにベニアの飛行機を作っている工場があり、余ったベニアの片づけに小学校5年生のとき動員された記憶がありますね。

空襲警報がなると防空壕に入るんですけど、頭の上でお豆を炒るような感じで機銃掃射がされるんです。犬が動いても撃たれると言われてました。

現在の共済病院が海軍病院で、けが人をトラックの荷台に乗せて運んだと、母から聞きました。

平塚大空襲のときは、田村に疎開していたんです。田村から平塚市街が焼けているのをました。

父親が志那事変(昭和12年)から軍医として出兵していましたから、父と遊んだ記憶がないんです。戦後復員した時は中学2年生でした。子どもの頃の記憶は横浜に連れていってもらい、おねだりして香水を買ってもらったことぐらいしか覚えていません。」

 

小児科医時代のエピソード

伊東さん:「大学病院で小児科医として働いていまして、末期のお子さんの手をさすってあげて看取りましたが、「何で助けてあげられなかったのか」と辛かったですね。でも逆に「元気になって、こんなことも出来るようになりました」なんてお手紙をもらうと、「小児科医をやってて良かったなといました。新生児が元気になりお母さんに抱っこされて帰って行くのをると嬉しくなります。

昔のお子さんと今のお子さんでは、虫歯が極端に少なくなりましたね。また、極端に痩せている子ども、肥満の子どもをみかけなくなりました」

 

平塚の街に想うこと

伊東さん:「昔は、大門通りで八幡様のお祭りが8月15日にありましたし、12月の暮れには“歳の市”があったりいろいろなお店がて賑やかで楽しみでした。やはり商店街が元気になってほしいです。寂しいですね。

ららぽーとなどの大規模店が出てきて、行けば洋服から食料品まで全部まかなえてしまうので、ここの商店街まで人がこないんですよ。商店街を保護する施策がほしいと思います。

また、平塚市には、スポーツ施設、文化施設が充実しているので“スポーツ・文化都市”として発展してほしいと思います。美術館、博物館では魅力ある企画が沢山あるので、多くの人が足を運んでほしいです。」

 

今後の夢

伊東さん:「旅行に行きたいですね。キプロス島に行きたいです。行こうとって計画したのですがコロナで中止になってしまいましたので。ヴィーナスの誕生の地といわれていて。ローマの遺跡が好きなんです。モザイク模様の壁、床などをたいと思います。海外旅行が難しければ国内でもいいんですが。ベルマーレをアウェーで応援に行きたいです。」

 

 

ライターの独り言

びんが丸いフラスコなのが、伊東さんがお医者さんとリンクしていて面白いといました。また、制作には胸部外科のピンセットが使いやすいなど、お医者さんならではのお話も聞けました。絵画と違って全方向から見られるアート作品なのも緊張するだろうなと思います。また、伊東さんの育ちの良さを感じました。人を疑わない、あまり気にしない、おおらかさがお話しの随所に感じられました。

いつまでもお元気で、やり残したびん細工の仕上げや、ベルマーレの応援に出かけてください。

ありがとうございました。

 

文責:清水浩三

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