ひらつか市民活動センターでお会いして名刺交換して驚きました。名刺にはダンス教師協会副会長の肩書がありました。以前にダンス教室のインストラクターの方にインタビューしたことがありますが、インストラクターを指導する方とは初めてで興味があり取材を申し込みました。ダンスに関わるお話がメインとなりましたが、増田さんの波乱万丈な半生も赤裸々にお話しくださいました。奥深いものを感じました。ご覧ください。

増田さんのプロフイール

77歳、 平塚生まれ、平塚育ち。8人兄弟、の5女。

増田さん: 5女ですと言うのが恥ずかしかったですね。「5女、5女かよ」といじられました。

大野第二小学校、大野中学校、大磯高校に入学。

 

小学生時代

増田さん:性格は引っ込み思案でおとなしかったです。小学校2年までは。担任の先生(作曲家湯山 昭さんのお母さん)から学芸会で、皆の前で“一休さん”の絵を描かされたんです。それができたことで自信につながりました。そこから変わりました。みんなとおしゃべりできるようになっていきました。

ラジオ番組のキャラクターに似ているから、担任の先生が“トマト”というあだ名をつけられました。

未だに先生はご存命で、お便りで「トマトは熟れたかな?」とくれます。私は「トマトは枯れました」と返すんです。正義感が強くて、不良仲間にも立ち向かい、「総理大臣になる」と言ったり、長いものにはまかれるのがいやなので言いたいことは言う子でした。印象が強かったのかも知れません。

父は宮大工で、崇善公民館や八幡宮の一部などを建てた職人でした。職人気質の部分は父親譲りのようです。当時の先生は、生徒をよく観ていたと思いますね。適正を引き出すための機会を与えてくれました。

父は仕事へ行く途中に脳溢血で倒れて3年寝込んでいました。

父が倒れてしまって、家が大変になり私が静岡にもらわれていったんです。

 

高校時代

増田さん:父親が亡くなり、家が大変になったため、高校1年、16歳の時に静岡にもらわれていきました。

その後、訳あって静岡から戻されるも、今度は東京に女中に出されました。身体が丈夫ではなくて、東京からも戻り、姉の援助で職業訓練学校に入りました。既に倒れる寸前の状態でしたが、友達の励ましや、訓練学校の先生が「勉強したければ、自分で働いて夜学に行って勉強しなさい」と励ましてくださって卒業と同時に、夜間高校の編入試験を受けて17歳の時に平塚商業高校に入学して、働きながら高校に通いました。

卒業後、公務員試験を受けて現在の美術館の場所にあった通産省の工業技術院東京工業試験所に勤めました。その後結婚しました。

 

訓練所の先生から贈られた歌が増田さんの人生訓

増田さん:高校を卒業する時に、訓練所の先生から歌を贈られました。

「げに春ののどけきに、暗くて過ぎし冬の日を、想い偲べる時にこそ楽しかるべし」

どんなにつらいことがあっても、後になればみんな楽しいものになるよ。人生訓になったのと、私がおかしくなった時に、諭してくれた友達がいたこと。人の大切さを感じました。母が活動家、ボランティアにも積極的で、小学校5年の時に若尾文子主演の映画「テープライブラリー」で盲目の人に本を聴かせるシーンに感銘を受けて、盲学校の低学年に絵本の読み聞かせをするボランティアを行いました。ボランティア精神は母譲りかもしれません。人間大好き人間です。

 

今までのお話で人と関わりたくないような人生だったように思いますが?

増田さん:息子が高校生の時にバイクで事故を起こして退学になりそうになったのを、同級生が校長に撤回を直訴してくれたことで、友達の大事さを感じました。

思うには、私は自分のすべてをさらけ出してしまっているからです。良いところでもあるし、でもそのために仕事は何度も失敗しました。人がどう思っても、「私はこうよ」で進めてしまうからです。

 

ダンスのきっかけ

増田さん:身体が弱かったからです。結婚して10年くらいして病気で倒れてしまったんです。

身体と心のバランスが崩れていると診断されて、スポーツをすすめられてジョギング、卓球、体操教室にも通いました。いろいろなことをしましたが改善されず医者通いをしていました。

見附台体育館でのクリスマスダンス講習会があって連れていかれたのをきっかけに、社交ダンスをしてみようと思ったんです。社交ダンスは身体も動かしますが、音楽に合わせるということもしますので、しばらくすると“めまい”や“耳鳴り”がなくなったんです。身体の具合が良くなったのが第一のきっかけです。

 

ダンススタジオの開設

増田さん:家を建て替えることになったんですが、ダンスの講師から「ダンススタジオにして貸してくれないか」という話があり南口にダンンススタジオを建てたんです。

でも、ダンススタジオは風俗営業法で公安委員会の許可が必要です。ダンスの講師では許可が取れないんです。私が経営者で、当時教師を充ててスタジオをスタートしました。でもトラブルがあり教師を切りました。でもスタジオを継続するためには教師資格をとらないといけなくなってしまいました。運動神経が鈍い、小学校の時に山に登ると降りれず、先生におんぶして降りてきた、跳び箱も鉄棒もできない、かけっこはビリ。水泳はみてるだけ。そんな私が短期間でダンスを習得しなければならなくなりました。

 

ダンスの教師になって

増田さん:ダンススタジオの10周年の時の祝辞に、「この子はオンチで運動神経が鈍かったのにダンスの先生をするなんて信じられない」と言われました。私が社交ダンスの先生になると言ったら、誰一人信用してくれませんでしたよ。私が鈍いものだから、生徒さんの指導には工夫することに繋がった。

「地元で先生とお医者さんほど認められるのは難しいんだよ。認められれば一人前だよ」といわれました。私は運動神経が鈍かったから、生徒さんに教える時にいろいろな工夫、努力をしました。

私の理念は、「基礎ができていないと、何をやってもムダだ」ということです。

基礎を教える先生がいないんですよ。仕事にならないから。

基礎ほどつまらないものはないでしょ。ステップなどを教えてくれる先生の方がとっつきやすいわけですよ。

社交ダンスだから、相手のことを想って踊らなければいけません。よく女性が「空いてのリードが悪いから踊れない」と言うんだけど。私は、「女が悪すぎ」。相手に「あれもやれ、これもやれ」と要求しすぎです。相手の邪魔をしないように動いてあげれば、男の人もどんどんうまくなるんですけど、それを教える先生が少ない。だから、教室の経営は失敗しましたけど。

増田 百代さん

 

ダンスの魅力

増田さん:相手がいること、年齢は関係ありません。抱き合うということ、赤ちゃんを抱くように、大切な気持ちで相手と組み合うこと。

赤ちゃんは抱き方が悪いと泣くでしょ。心を込めて大事にしてあげないといけない、そのためにはお互いに優しさや思いやりが必要です。

今は、「自分が」「私が」と自分の主張が強いですが、そんな気持ちではダンスは踊りにくいです。自分を主張するのが風潮ですが、相手のことを考えた上で言葉に出してほしいと思います。

手を握られると安心します。

後ろ歩きがあること あまり、日常ではしない動きですが、健康に良い、音楽が素敵。激しい曲から、緩い曲まであるので健康にいい。でも基本をしっかり学ばないと膝などを痛めてしまうんですよ。

 

増田 百代さん

 

新ダンススタジオ開設と息子夫婦との確執

増田さん:息子が事故で、リハビリのために社交ダンスをやらせることにしました。息子もダンスを好きになってくれたのもあって、平成元年に湘南一のダンススタジオを創ろうと紅谷町に80坪のダンススタジオを開設しました。そして息子をチャンピオンに育てようと邁進しました。

息子夫婦は若かったので、私が糖尿病で頻繁に入退院を繰り返していましたのを「あなたの体の悪いのは、足手まといです。」と言われました。私は「どうすればいいの?」と訊くと「私たちから離れて」と言われたのは、やはりこたえましたね。

その直後に倒れて、5か月の間、入院しました。

その間に、お嫁さんは別な教室へ、息子も出ていってしまいました。。

相手にこっちを向いてほしいために行っていましたが、周りの人を傷つけてしまったことに気づきました。息子夫婦は全日本の7位にはなりましたが、チャンピオンにはなれませんでした。

 

「平塚に良いものを残したい、育てたい」という軸は同じ。

増田さん:飛騨高山への旅行で、関ケ原に泊まった時、お坊さんが歌を作ってくれました。

々とに愛の華咲かせましょう、瀬に亘り々繁栄」

私の名前が詠み込まれています。私は育てるのが役目で、刈り取るのは私ではないんだと思い始めました。

 

嬉しかったこと、苦しかったこと

増田さん:嬉しかったことは、息子がAクラスになった時ですね。

逆につらかった時は、短期間で教師の資格をとらなければならなかった時ですね。

みなさんに認めてもらわないといけなかったから、生徒に教えた後に、別に一週間に5回レッスンに東京まで通っていました。電車の中で食事して最終電車で帰ってきて、スタジオでおさらいして、次の朝の練習会に出てというスケジュールでした。今考えるとよくやっていたなと思います。

 

生徒さんにどうやって教えようかと悩んだことはありますか?

増田さん:もちろんです。夢にみました。試行錯誤しながら。

でも、教えることで逆に教えられてましたね。専門用語ではわかってもらえない時には、違う言葉の表現でおしえてあげるとか。「スロー、スロー、クイック」なんて言ったってわからない時は、「のってけ、のってけ、足踏み」なんて言い換えて解り易く工夫したりとか。

以前に平塚でユニークダンスという障害者の方たちの集まりで教えていたんです。

昭和55年ころから、高齢者の方、眼の不自由な方、耳の聞こえない方、車椅子の方、子どもに教えました。それで、教え方を学びました。

目の不自由な方には、安心感を持たせる言葉で、耳の不自由な方には、身振り手振り、つまりジェスチャーで。

車椅子の方には優しさを、高齢者の方には根気よく、子どもには正確さを心がけました。

 

平塚の街について

増田さん:気候も良いし、良いものを求めない。価値のあるものは、理由があります。

私はダンスで平塚に本物を創りたいと思いましたが、ダンスは踊るだけじゃないんですよ。「社交」ですからマナーも身に付くわけですよ。パーティなどで立食の時に人数分以上に持ってきてしまうとか、食事のマナーは平塚悪すぎ。ダンスの会でも、マナーをわかってもらうためにテレビでもおなじみのデヴィ夫人を呼んで講演会を開きました。

色々なものが、誰でもできる大衆化してきましたが、大事な部分が教えられてないので、私たちの責任かなと感じています。せめて平塚の人たちには身につけてほしいと願っています。

良いものを大切にする街になってほしいです。

 

今後の夢

増田さん:障害のある方でも街を歩いても、気軽に声を掛けられるような社会になってほしいなと思います。ダンスの生徒さんで全盲の方で、大会で優勝した方もおられるので、その方たちと運動をしていきたいと思います。

 

 

 

ライターの独り言

インタビューでお話されている間、メモも見ずに淡々と話される増田さんに艱難辛苦の人生を乗り越えてきた凄みを感じました。記憶が鮮明で明瞭に事柄が出てくるのにも驚きました。赤裸々にお話しくださったことに感謝いたします。これからもお体に気を付けて活躍され、田に華を咲かせてください。ありがとうございました。

 

 

取材日:令和3年12月7日  清水記

 

 

 

 

 

 

 

 

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